高橋源一郎『さよならクリストファー・ロビン』

高橋源一郎著『さよならクリストファー・ロビン』(新潮社、2012年)を読了。

この単行本には、全部で6つの短編小説が収録されている。
その中の一つ、「峠の我が家」という短編を私はとても面白く読むことができた。


この短編の中では、私たちが幼き頃に個人的な空想の中で作り出し、生きていたものを「お友だち」と名づけて呼んでいる。

この「お友だち」は、「ほんものの」友だち、つまり幼い子が社会の団体生活(幼稚園や保育園)の中で見つけた肉体を持った友だちを見つけてしまうと忘れ去られ、いなくなってしまう。

簡単に言えば、社会の中で他者を見つける以前に存在した「自己の中の他者」ということができる。

実際の肉体を持ってサッカーや野球をして遊ぶ友だちではなく、そのような友だちと出会う以前の我々が、頭の中で作り上げた友だちを「お友だち」と呼んでいるのである。

「お友だち」は、彼らを作り出した「ご主人」である我々がその存在を忘れてしまうと、「ハウス」とよばれる場所にやってくる。

「ハウス」は「ご主人」に忘れ去られた「お友だち」が行き着く場所であり、「ご主人」の空想の中に居場所をなくした「お友だち」が存在できる居場所なのである。

そして「お友だち」がこの「ハウス」を出て行くときは、「ご主人」が死を迎えるときであり、「ご主人」は死を迎えるときに初めて「お友だち」の存在を思い出すのである。


私はこの短編を読んで、「もしかしたら私にも実際の友だちができる前の本当に幼い頃に、空想の中で遊んでいた「お友だち」がいたのだろうか」と考え、思い出そうとした。

でも残念ながら、何も思い出せなかった。それがとても切なかった。

でも、もし私にも「お友だち」がいたとして、そんな忘れ去られた「お友だち」に「ハウス」のような居場所があるならば、
それはとてもすばらしいことだと思った。


さよならクリストファー・ロビン

さよならクリストファー・ロビン