瀧の白糸

先日、明治学院大学で行われた講演会を聴きに行った。


「ラウンドテーブル 『瀧の白糸』 ―映像×音楽」

日時:2011年7月26日(火)18時半開演
場所:明治学院大学白金校舎アートホール
パネリスト:望月京明治学院大学准教授)
      とちぎあきら(東京国立近代美術館フィルムセンター主任研究員)
      斉藤綾子明治学院大学教授)
      岡部真一郎(明治学院大学教授/日本アルバン・ベルク協会事務局長)
主催:明治学院大学芸術学科
   公益法人 サントリー芸術財団
   日本アルバン・ベルク協会
協力:東京国立近代美術館フィルムセンター


講演パンフレットには、望月京作曲の≪瀧の白糸≫の成立経緯とその後について簡単に書かれている。


「パリと東京を拠点とする作曲家、望月京が、ルーヴル美術館の委嘱により、溝口健二サイレント映画『瀧の白糸』のためにスコアを書き下ろしたのは、二〇〇七年のことでした。同美術館における世界初演の大成功の後、溝口×望月の『瀧の白糸』はオランダ、スイス、ドイツなどで再演を重ね、好評を博してきました。」

さらに講演のテーマについても触れている。


「(望月京作曲の≪瀧の白糸≫が)今年八月、いよいよ待望の日本初演が実現します。[八月二十四日、二七日 サントリーホール] それに先立ち、フィルム復元の歴史に詳しいとちぎあきら氏を招き、また、『瀧の白糸』論を発表したばかりの映画研究者である斉藤綾子、そして作曲家を囲んで、時代とジャンルを超えた共同制作から生まれたこの傑作に様々な角度から光をあてます。」


ここでは触れられていないが、岡部氏は講演の進行役を担っている。


およそ2時間の講演だったが、終始楽しく聴くことができた。

溝口健二無声映画『瀧の白糸』は1933年に映画化された。
映画の原作は泉鏡花の『義血侠血』である。
斉藤氏は、泉鏡花の原作の変遷と溝口の『瀧の白糸』映画化までの過程や周辺的な出来事を詳しく説明してくれた。

とちぎ氏は、映画『瀧の白糸』のフィルムの復元方法や、無声映画とトーキーの違い等を説明してくれた。
その中でとりわけ興味深かったのが、無声映画とトーキーの違いについてである。

一般的に無声映画は「音がない映画」として認識されているが、
とちぎ氏によると、
無声映画は「ない」ものとして存在しているわけでは決してなくて、トーキーには「ない」が無声映画に「ある」ものがたくさんある、
ということだった。

つまり、トーキーの出現によって得るものばかりではなく、失うものもたくさんあったというわけだ。

それは「余白」とか「行間」とか「奥行き」とか美学的な認識上の話だけではなく、
むしろ即物的なものであるという。
ただ、この話は説明してもあまり面白くないので僕の心の中だけにとどめておくことにする。(僕の専門外なのでうまく説明ができないという理由もある。)

月氏は≪瀧の白糸≫作曲の成立過程を詳しく説明してくれた。

『瀧の白糸』は、主人公の女水芸人の瀧の白糸と、彼女が世話をした欣弥(きんや)という青年を中心に話が進む。
月氏は、物語上の白糸の性格と欣弥の性格を考慮した上で音楽を作曲したという。

月氏は瀧の白糸の性格について、
「乾いた性格」であり、厳しい状況に置かれてもその運命を受け入れる「いさぎよさ」を感じたという。

その性格を考慮した上で、瀧の白糸を表現するためにライトモティーフのような形で邦楽器を用いたようだ。

さらに欣弥を表現するために西洋楽器を用いたという。

欣弥の性格に瀧の白糸とは反対の性格(つまり「優柔不断な」「はっきりしない」)を感じた望月氏は、微分音によるヴァイオリンの息の長い旋律を用いて、はっきりとしない欣弥の性格を描いたという。

さらに、悲劇的な二人の運命(望月氏はこれを「第3者的で逆らえないもの」)を象徴するものとして電子音響を用いたという。

つまり整理すれば、


瀧の白糸→邦楽器

欣弥→西洋楽器

第3者的な運命→電子音響


ということになる。

非常にわかりやすい構造なのだが、角度を変えてみれば奥行きがない、浅い作品ということになってしまう。
月氏は「音楽はそれ自体が意識を持っていて、作曲家が音楽的プランを持っていたとしても、音楽それ自体が勝手に動き出す」と述べていた。

つまり、この作品も緻密にシステマティックに作ったわけではなく、霊感にゆだねるというか訪れるものを尊重したという面があるようだ。それがこの作品に深みを与えているのだろう。

また望月氏は、映画音楽の作曲について次のようにも述べていた。


「映画を観ていると、映像それ自体がすでに音を持っていることが分かる。それをむやみに助長するような音楽や、それと戦わせるような音楽は邪魔である。私は音を作るというより音を削るということを意識して作曲している。」


このような作曲におけるマイナス的思考には武満徹の影響が感じられないわけではないが、
それだけではないだろう。

音を削ることを意識することで、映画と音楽が寄り添うような感覚を受けた。
実際に全曲通じて早く耳にしたいものだ。


僕は8月27日の公演に行くことにした。
サントリー芸術財団主催サマーフェスティバルは毎年欠かさず聴きに行っているが、
いつも大きな刺激を受けている。

http://www.suntory.co.jp/sfa/music/summer/index.html

世界のいたるところでは今でも新しい方法や思想や音が生まれている。
それをこの耳でしっかりと受け止めたい。